2016/9/17-25 亜丁−木里トレッキング
山岳愛好会雷鳥(東京大学・お茶の水女子大学公認サークル)
亜丁—濾沽湖山行計画書 ver.1.0
作成者:久光
■日程
2016/9/17-9/25(土-日)
前夜泊 山中8泊9日 予備日なし
■山域 東チベット
■在京本部設置要請日時
9/26 20:00(日本時間)
■救助要請日時
9/27 10:00(日本時間)
※在中国日本大使館と相談の上、柔軟に対応する。在京との間で基本事項を取り決めておく。
■メンバー(計1人)
CL久光
■集合
9/16 中国・稲城県
■交通
□行き
9/13
成都より色達、康定、稲城を経て亜丁へ。
9/17
亜丁景区ゲートから電動車で洛绒牛场へ。
□帰り
9/26
温泉郷より乗り合いタクシー等で落水村、寧蒗を経て麗江、麗江より空路で昆明、香港を経て帰国。
■行程
1日目 洛绒牛场4150-牛奶海4500-松多垭口-蛇湖44700-呷独牛场4400(計6:00)
2日目 呷独牛场4400—蛇湖营地4500—蛇湖垭口4750—新果牛场4270(計8:00) 12.6km
3日目 新果牛场—央迈勇横向垭口—土砂崩れ跡—杂巴拉垭口—万池花牛场(計8:00) 11.4km
4日目 万池花牛场4250—藏别呷日牛场4100—满措牛场4000(計5:00) 11.3km
5日目 满措牛场4000—(0:30)—白水河营地(3:00)—菩萨洞—坝子—(1:00)—三叉路※—(0:30)—水洛金矿—嘟噜村※—水洛村・通天河营地※○
6日目 通天河营地—(0:20)—水洛桥—通天河谷—卢杜村—邛引山垭口3900—邛引村※○(計9:00)
7日目 邛引村—塔斯沟—塔斯沟垭口—崔尔山垭口—达克谷多垭口营地
8日目 达克谷多垭口营地—屋脚村※○—羊棚营地(八一营地)
9日目 羊棚营地—(4:00)—利家嘴村—(2:00)—拖其村—(1:00)—温泉村※○
※補給可能 ○宿あり
※各牧場では牧場の建物に宿泊可能な場合あり。10元程度か。
※予備日は設けないが、前半で遅れた場合、水洛村より木里を経て西昌へエスケープ。後半は集落の点在する地域。
※ルートは参考資料欄の資料に詳細あり。所要時間等は登りの場合を参考にしているので、おそらく短縮可。
※天候が芳しくなく景色が優れない場合、ショートカットも検討。その場合、冲古寺-夏诺多吉垭口(泊)-嘎洛村(泊)-嘟噜村。
※日程が大幅に押した場合、亜丁観光後、別ルートに変更し卡斯村に下山。牛奶海-长海-垭口-卡斯牛棚(泊)-卡斯村。
■エスケープルート
杂巴拉垭口まで:洛绒牛场に戻る
杂巴拉垭口から塔斯沟垭口まで:水洛村へ
塔斯沟垭口から:そのまま進む
■地図
フリーソフト「楽図」にて自作
■参考資料
https://www.columbiasports.cn/campaign/gonglue/muliyading.pdf
https://www.columbiasports.cn/campaign/gonglue/luguhudaochengyading.pdf
■備考
□日の出・日没
9/17 四川省稲城
日の出 7:05
日の入り 19:22
□警察
110番に通報
□緊急時の連絡先
日本大使館領事部(邦人援護)
010-6532-5964
在重慶総領事館
023-6373-3585(国番号+86)
□エスケープルートの交通手段
水洛-木里 バスあり、120元
水洛では荷駄馬一匹120元/日
□偏角
昆明 1°00'w
□温泉
永寧温泉 10元
亜丁−木里トレッキング記録
■作成: 久光
■日程: 2016/9/17-9/21
■山域: 東チベット
■天候:
◽︎1日目 晴
◽︎2日目 曇後雨
◽︎3日目 曇後雨
◽︎4日目 雨後曇
◽︎5日目 曇
■メンバー: CL久光
■行動記録
◽︎1日目 晴
14:25 ルオロン牧場(洛绒牛场)
14:38 馬帮斡旋所
16:54 五色海分岐
17:11 五色海
17:36 牛奶海
18:26 ソントゥオ峠(松多垭口)
18:59 蛇湖牧場(蛇湖牛场)
◽︎2日目
8:15 蛇湖牧場
10:17 蛇湖峠(蛇湖垭口)
14:37 央辺勇南西稜乗越
17:13 新果牧場(新果牛场)
◽︎3日目
8:06 新果牧場
9:15 央辺勇南陵乗越(央迈勇横向垭口)
10:07 大ガレ場
11:14 祠
14:12 ザバラ峠(杂巴拉垭口)
16:22 ウーホアゼイ牧場
◽︎4日目
8:38 ウーホアゼイ牧場
11:44 白水河の橋
13:18 支沢の橋①
13:24 支沢の橋②
14:11 菩薩洞
15:11-3:36 民家下の分岐
16:36 牧場の尾根
17:15 ガル村(呷洛村)
◽︎5日目 曇
9:26 ガル驢友の家(呷洛驴友之家)
10:58 白水河の橋・谷道出合
12:15-12:36 沾固村
(13:00頃バイクに拾われ、以下車での移動)
14:29 新蔵橋
24:00頃-翌9:12 博科郷バスターミナル
翌13:05 木里県城
■記録
◽︎~0日目
屋久島山行を終えて、佐賀空港より空路で上海を経て重慶、重慶で一泊し高速鉄道で成都入りする。運賃はおおよそ佐賀-上海3800円、上海ー重慶7900円、重慶ー成都2300円。成都で2泊して、食料や空輸不可のガスカートリッジを調達。今回の山行のスタート地点は、一大観光地となっている四川省稲城県・亜丁という地区で、その拠点となるのは100km離れた稲城という街。成都からは、稲城・亜丁行の直行バス(途中康定泊・所要時間2日)もあるが、今回は前から行きたかったラルンガルゴンパに寄り道したため、成都ー(バス)ーガンゼー(ミニバン)ーセルター(ミニバン)ーガンゼー(バス)ーリタンー(ミニバン)ー稲城という経路になった。稲城入りは9月16日夜。稲城へは空路でもアクセス可能だが、標高4000mを超える地に直接降り立つのは、高山病のリスクが高いと思う。稲城では稲城国際青年旅舎(ユースホステル)泊。一泊35元の快適な宿。
◽︎1日目
稲城から亜丁はミニバンでの移動となる。前日に、宿で同室の人が一時間でルオロン牧場から牛奶海まで行ったという話を聞いたこともあり、少し甘く見てしまい、朝急がなかったのが運の尽きだった。9時に車だまりにつくも、客らしき人はほとんどいない。乗り合いなら相場50元でいけるということだったが、待てど暮らせど亜丁行きの客は集まらず。結局、一人で車一台を200元で貸し切ることに。相場よりは安めとはいえ、痛い出費になった。10:20稲城発、12:00シャングリラ鎮の風景区入口着。ここまで70km程度の道程。
亜丁は中国にありがちな「風景区」として観光開発されており、内部に一般交通は乗り入れできず、入口で入場料を支払う必要がある。入場券は学割適用・バス代込みで200元。べらぼうに高い。シャングリラ鎮から亜丁村を経て、遊歩道の基点となる冲古寺までは30km、専用バスで1時間。さらに冲古寺からは50元の遊覧車で走ること15分、ようやくスタート地点のルオロン牧場に到着。この時点で既にいい時間だ。周囲は5-6000m級の雪山に囲まれ、緑の絨毯の中を透き通った水が流れる。貧弱な例えだが、尾瀬を500倍くらいすごくした感じ。
牛奶海までは観光ルートで、行き交う人々は大体スニーカー。時折、レンタルの馬に乗った人とすれ違う。馬はルオロン牧場でレンタル可能、片道250元、往復500元。金持ちだ。流石に日帰りでこの時間から登り始める人はおらず、すれ違う人々から「泊まるの?」と聞かれる。道は陣馬山手前の縦走路並みに広く整備されているものの、ところどころ馬糞でぬかるんでおり、臭う。途中、登山道チックな箇所も何箇所かある。氷河を戴いた山と、側壁から流れ落ちる滝を見ながら、U字谷に沿って登っていく。景色は最高。
五色海は、モレーン状地形を道から少し登った裏にある。正面には雪峰が大迫力で聳える。着いた時にちょうど日が差して、湖面は青色から緑色までのグラデーションが見られた。美しさに見惚れる。
五色海の隣は牛奶海。ここを過ぎると、一般観光エリアの外になる。道が途端に細く、幾筋もに分かれて交錯するようになり、ところどころ不明瞭。随所にケルン状のもの(マニ堆)があるので、おおよそのルートは分かる。峠は4700m。空気が薄く頭が痛い。荒い呼吸で一歩一歩登る。峠に着いた頃には本格的に日が傾いており、少し焦る。
峠からは蛇湖方面に進む。間もなくすると斜面のトラバース道がはっきりしてくる。予定では、蛇湖を行き過ぎてガドゥ牧場(呷独牛场)に泊まるつもりだったが、それでは日没に間に合わないので、標高が高く条件は悪いが、より近くて明日の行動にも便利な蛇湖牧場泊とする。ガドゥ牧場方面への道と湖畔への道の分岐ははっきりしなかったが、ガドゥ牧場方面に進みかけたところで、眼下に湖畔に降りる道がはっきり見えたので、適当に斜面を下り湖畔に降りる。この辺りは同様の踏み跡がたくさんあった。
蛇湖のほとりにも牧場がある。牧場は草地で美しいが、牛糞だらけでテントを張るスペースがない。遊牧小屋の跡と思われる壁の石組みが数多くあり、そのうち一つには屋根がかかっていて現役のようだった。悩んだ末、屋根が外され壁だけになっている、遊牧小屋跡にテントを張り、今晩の宿にした。
◽︎2日目
これまでの登山経験の中でも最も際どい一日だった。
5時15分起床。70リットルザックに限界まで荷物を詰めていたこともあって、パッキングに手間取り、出発が大分遅れる。
まず蛇湖から蛇湖峠を越える。蛇湖峠は、急な岩峰がそこだけパックリと欠けており、いかにもここに道を通すしかない感じ。蛇湖に流入する小川を渡渉して峠の斜面に取り付く。初っ端から道が不明瞭なガレ場の登り。何度も踏み跡を外す。4700mの急登は息が切れ、数歩歩くごとに辛くて足が止まる。ここの通過だけで2時間を費やしてしまった。
峠から先は基本的には央辺勇南西稜に沿って進むが、地形が複雑で、踏み跡も錯綜している。特に峠の下りや牧場で迷いやすい。所々ケルンがあるが、GPS画面を印刷した地図には載っていない立派な踏み跡が多く、またそもそも地形表現が大雑把で、これだけで正確な道を進むのはなかなか厳しい。途中、支稜の峠を越えたところで、谷を降りていく太い道に惑わされ、盛大にロス。地形図とあまりにも一致しないので心配になり携帯のGPSアプリを起動すると、斜面をひたすらトラバースしていく正しいルートから、標高にして200mほど下ってしまっている。時間を考えると元に戻るのも厳しいので、草の斜面を横切って、直接央辺勇南西稜乗越(4750)を目指す。空気が薄いのと、斜度がきついのと、日射病か高山病か、頭がガンガンするので、地獄のように辛い。乗越を越えて正しいルートに復帰し、山の向こう側が見えたときは感動して、思わず地面にへたり込んだ。
乗越からは南西稜の反対斜面をひたすらトラバースする。斜度が緩く牧場の広がっていた西側と比べ、東側はひたすら急斜面のガレの中腹ををトラバースする。踏み跡は安定しているが、細くて怖い。身体的にも限界だが、ここでビバークする訳にもいかず、こらえる。やがて眼下に今夜の泊地である新果牧場が見えてくるも、いざ下ろうとすると霰が降り始め、やがて雷が鳴り始める。最後の斜面を下り、牧場の簡素な小屋に転がり込む。小屋は無人で、小屋といっても石積みの壁と、板張りの屋根があるだけだったが、何とか風雨はしのげる。テントを乾かす意味も込めて小屋の中にテントを張り、頭痛がひどいので、高山病の薬と頭痛薬をのみ、一度横になる。9時頃に一度起きて遅い夕食をとり、就寝。
◽︎3日目
頭痛もすっかり引き、気持ちの良い朝。雨も上がり、テントもすっかり乾いている。雲の切れ目から、央辺勇が間近にのぞいている。
このあたりのルートは登山道並みに明瞭。ルートが交錯することもなく、分かりやすい。ゆるい勾配を登り、央辺勇南稜乗越を越えると一旦樹林帯まで下がり、改めてザバラ峠を登る。体は昨日と違って快調そのもの。途中大きなガレ場を2度横切るが、踏み跡はしっかり固まっている上、斜度は十分緩く、昨日ほどの危なさはない。峠までは何箇所か牧場が広がり、馬が草を食んでいる。所々に青空ものぞく天気で、景色もよい。しかし、峠の頂上付近はやはり空気が薄い。休み休み登る。
途中休憩時に、元々片一方折れていたザックの腰パッドの骨が、ついに両方折れてしまったことに気付いた。こうなっては、腰パッドが最早用をなさない。全荷重が肩にかかるので、首回りが異様に疲れる。
ザバラ峠手前で霰が降り出し、やがて雨になる。峠からの下りの道は、打って変わってあまりはっきりしない。何度となく渡渉する。道はぬかるみ、一度靴を思い切り泥に沈める。ここまでひどいのは北海道以来か。おまけにヤクの糞だらけ。雨具がもはや用をなさなくなり、下着まで浸水した頃、標高4250の牧場で小屋が目に入る。近づくと犬が激しく吠えだし、やがて小屋からチベット族のおばさんが様子を見に出てくる。
おばさんは中国語があまり話せないが、ジェスチャー混じりのコミュニケーションによると、どうやら一泊50元で泊めてくれるらしい。すでに全身ずぶ濡れの上、せっかく乾いたテントを雨の中張りたくもないので、お邪魔することにする。
小屋の作りは、おおよそ昨日泊まった小屋と同じく、石組みの壁に板張りの屋根、床は地面に直に板を敷いたものだが、昨日の小屋より広く、また実際に人が生活しているのできちんと手入れされている。焚き火にあたらせてもらい濡れた体を乾かしながら、ツァンパ、バター茶をご馳走になる。おばさんは布を織っている。どうやら腹巻きにするらしい。紋様がカラフルで美しい。
程なくして放牧に行っていた娘も帰ってきた。娘は訛っているものの、それなりに中国語を話せる。話によると、二人は麓のガル村の人間で、母ハポ・ヨンゾンさんと娘ハポ・スヌイドゥィさん二人で、四月から山上でヤクを放牧しているらしい。娘も既婚で、子供を含めた家族は麓で生活している。無線で麓の家族と交信していた。彼らによると、この牧場はウーホアゼイ牧場というらしいが、他の記録を見る限りこの名前は登場しない。場所的には恐らく漢名・万池花牧場である。山歩きのパーティを泊めることはよくあるが、1人で来るのは珍しいとのこと。
改めて、家族二人とともに夕食をいただく。翌日聞いた話では、チベット人は一日四食食べるらしい。夕食はヤク肉とジャガイモの煮物に白米。白米は圧力鍋で炊いていた。ヤク肉は骨っぽい部位だったが、味があって美味しい。
明後日、今年の夏季の放牧を終えて村に下山するということで、二人は下山準備に忙しいようだった。分離・凝固したヤク乳を搾ってチーズ(レチャ)を作ったり、バターを餅みたいに練って袋に詰めたり。目の前でテキパキと繰り広げられる「生きるための技術」に、しばし圧倒された。食べるものも着るものもエネルギーも自分で作る。分業化の高度に進んだ社会で便利な暮らしを享受してきた自分は、そのぶん、自力では何もできない無力な存在で、数世代前には持っていたであろう身の回りの自然とともに生活する技術と知識を、何一つ持っていないのだと思い知らされた。
チベット牧畜民の暮らしを満喫した夜だった。
◽︎4日目
夜半、雨が屋根を叩く音が収まったので、ようやく雨が止んだ喜んでいたが、朝、外を見るとまさかの雪。山の上の方は一面白くなっている。昨日じゃなくてよかった。牧場の人曰く、今シーズン2回目の降雪だそうだ。明日私たちと一緒にガル村に降りよう、とすすめられるが、今後の行程を考えて断る。
朝ごはんにババ、レチャにバター茶をいただく。ババは平焼きパン、レチャは酸味の強いチーズ。パンにチーズにミルクティー、という洋食の構成と同じだ。
牧場の人たちは朝食後、さっそくヤクの乳搾りに。こちらは別れを告げて、牧場より出発する。天気は上部で雪、その後雨に変わる。
白水河の谷に沿ってひたすら降る。下山の道はおおよそ分かりやすいが、牛糞に馬糞でこれでもかというほどぬかるんでいる。白水河本流を渡る橋の手前で、登ってきた人とすれ違う。聞けば後ろに6人と、馬引きが2人いるという。その後前日都路村を出発した3パーティ、および牧場の下山を手伝いに来たガル村の人2人と行き違う。それにしても、南京大学でも感じたが、どうも中国のパーティは先頭と最後尾が間延びになりやすいようだ。今回すれ違ったパーティも、極端な例ではトランシーバーを持っている先頭と最後尾が2kmほど空いていて、間の方で初心者らしきメンバーが道を間違えていないか不安げに歩いている、という場面が見られた。
途中休憩するときに、ザックの右側のショルダーパッドとザック本体の間の縫い目が破れ、あと1cmのつなぎ目でかろうじて繋がっていることを発見。ただでさえ昨日の故障で腰パッドが使い物にならず、肩紐に大きな荷重がかかっているだけに、いつまで持つか厳しい。さらに、雨具のポケットに入れていた携帯電話の水濡れを放置していたら、強制終了と再起動を繰り返し、使い物にならなくなってしまったことにも気づく。ここに来て、山行の継続に暗雲が垂れ込める。
谷はU字谷からV字谷に変わる。谷の両側の斜面はどこまでも切り立っており、対岸には見上げる高さの一枚岩の壁がそびえ続ける。白水河はどこまでも激流を流れ落ちていく。あまりの流れの速さに、水の泡が消えることなく、白く濁っている。どうりで白水河というわけだ。途中、ゴルジュ状になった河が半分地下にもぐり、河に覆い被さる岩の上の樹林から、滝が数え切れないほどの筋をなして流れ落ちている。上空には紐に吊るされた、赤青黄白の旗が翻る。見たことのない奇観。どうやらここが菩薩洞らしい。
菩薩洞でもう一度本流を渡ると、道は高度を上げ、川床から急激に離れていく。この辺りで、ドゥル(嘟噜)村を今朝出発したというパーティ2組と出会う。
地図上では、菩薩洞をすぎ間もなくすると道が川床に下るはずなのだが、一向に下がらないどころか、引き続き高度をあげていくので、なんとなく不安になってくる。携帯が壊れているので正確な現在地はわからない。印刷した地図上のGPSのログには、上がっていく道は反映されていない。そういえば、牧場の人たちがガル村に続く道があるといっていたが、ひょっとしたらそれかもしれない、と思い当たる。この先、谷底にはドゥル村が、左岸の尾根の上にはガル村があることになっている。いずれにせよ、道には点々と馬糞と人の痕跡があり、方向的にもこの先にいずれかの村があることは明らかである。時間ももう遅く、戻ってドゥル村への道を探しても、明るいうちに人里にたどり着けるか分からない。現在地のわかることが何よりも重要だ。ガル村とドゥル村の間に道路があることは分かっている。それなら、あるかどうかもわからない正しい道を戻って探すよりも、ガル村に出るなら出るで、このまま真っ直ぐ進んだほうがいい。そう考えて、そのまま歩みを進める。前方にはガル村からドゥル村へ下るつづら折れの道路が見えている。
果たして、道は相変わらず高度を下げずどんどん登っていき、そのうち道沿いには電柱が現れ、道もだんだん広くなって林道のようになり、しまいには沿道に家畜と、薪を取りに来たおばあさんが現れる。聞けば、やはりこの先がガル村だという。かなり注意していても分岐を見落とした不甲斐なさを恥じつつ、とりあえず一安心する。
牧場の尾根を越えて、その奥に現れたガル村はまるで桃源郷だった。青々とした草原の中に、金色に輝く寺があり、その下の斜面に立派な石造りの家々が立ち並んでいる。馬糞と牛糞の泥濘に足を取られながら道を下っていくと、やがてお兄さんに「泊まるか?」と声をかけられた。値段はいくらでもいいという。50元払うことにしてついて行くと、「ガル驢友の家」という看板がかかった家に案内される。
「ガル驢友の家」は、地元民が時々登山に来た人をとめているという感じで、家の中に入ると前に訪れたらしき、沢山の中国各地のアウトドアクラブの人々の写真があった。
一家は8人家族だそうで、在宅だったのは元気なおばあさん、美人でよく笑う娘さん、イケメンの娘婿、3歳と1歳の女の子。家の人々の中国語は訛りが強く、残念ながらあまり聞き取れない。
建物は、がらんどうだが立派な石造りの母屋と、外に台所がある。庭には牛、馬、鶏が放し飼い。電線は通っているが電気はまだきていないそうで、もちろんガスや水道もない。トイレは「今作ってるけどまだできてないからそこら辺でして」。現代中国の農村にまだトイレのない村があるとは流石に思っていなかった。
太陽熱給湯器の温水で体を洗わせていただき、台所で焚き火にあたりながらツァンパ、バター茶、じゃがいも饅頭をいただき、さらに夕飯で炒め物とスープをいただく。どれも美味しく、温かいもてなしが身に染みる。上の子がひたすらくっついてきて可愛い。太陽能の温水で久々に体を洗い、夜は仏壇のある板の間に布団を敷いていただいて寝る。暖かくて心地が良い。
◽︎5日目
台所で朝食にレチャ付きババとバター茶をいただく。昨日調子の悪かった携帯電話は、予備バッテリーで少し充電してみても起動すらしない。腰パッドが機能していないためにザックが重い。本来の予定では、この日は道路を歩いて水洛村まで進むことになっている。まずは谷に下り、予定のルートに復帰しないとならない。宿の人によれば、ガル村から水洛村はバイクで2時間、歩いて8時間くらいとのことだった。
昨日盛大に道を外した経験から、明日以降の日程の、地形、道ともにさらに複雑になるルートを、GPSなしで歩くのは無謀だ。しかし、昨日、一昨日と地元の人との温かい交流が楽しめたので、この先の村が連続するゾーンも心情的には捨てたくない。したがって、ひとまずは予定通りこの地域で一番大きいと聞いていた水洛村まで進み、そこに電気のあることを期待して、一晩宿に泊まり、携帯をきちんと充電してGPSが復活すれば先に進み、そうでなければエスケープすると決める。
快適な一晩のお礼に、最初に言った額より多めの70元を払い、ガル村を後にする。家のおばあちゃんに、「来年もまた来てね、お友達も連れて来なさい」と言われる。またいつか訪れる日が来ると良いなあ。
ガル村から谷底に下るつづら折れの道路は未舗装で、路肩は岩がむき出しの状態。ところどころ土砂で道路が埋まり、村人が除去作業をしている。自分が歩いている目の前でも二度ほど上から落石があり、危険極まりない。そんな道なのでもちろん普通の乗用車は入ることができず、この辺の交通は少数の四駆を除けば、もっぱら二輪車に依存しているようだ。実は前日の宿が決まる前に、「水洛村まで送ってやるよ、250元でどうだ」と村人に言われたが、高すぎるので断った経緯がある。ネットを見ると、相場はそのくらいらしい。
坂道から眺める上流の白水河は、滝が絶え間無く続き、水は常に白く泡立っている。模型のように見えていた谷底の村が徐々に近づいてきて、やがて谷底に降り立った。荒れ狂った速さで流れる白水河の橋を渡ると、昨日通るはずだったドゥル村への道だ。谷底には一軒の店と林業検査場がある。
ここからは延々と未舗装の道路歩きが続く。白水河から通天河の谷の斜面をトラバースするだけの道だが、案外アップダウンがありきつい。沿道には時折集落が現れる。バイクやトラック、トラクターが、現れては追い越していく。
やがて、バイクに乗った好青年から声をかけられた。「水洛村に行くの?乗れよ。金はいらないよ。」率直に言って中国でここまで優しい言葉をかけられたのは初めてだった。一瞬戸惑うも、肩がもう限界に近かったので、好意に甘えることにする。凸凹道を行くバイクの背中に座るのは少し怖いが、顔に当たる風が気持ちいい。彼はドンラ村(东拉村)の在住で、同じ方向に行くところだったらしい。
途中、落とした荷物を拾っているところでトラックに追い抜かれる。バイクのお兄さん曰く、トラックは木里まで行くらしい。お前も木里まで行くか?それならこのトラックに乗れるぞ?という。一瞬考える。このあたりで泊まっても、そもそも電気のある宿があるかわからない。仮に充電できたとして、携帯電話が直る可能性はもっと低い。そもそもザックの状態も、あと3日間歩ける状態か微妙だ。どうせ木里に下りるなら、折角のチャンスを逃すべきではない。ここにて、ようやくエスケープを決断する。
かくして、トラックの助手席に乗せていただく。見ず知らずの僕にここまでしてくれる人々の優しさに感動する。トラックは、普通自動車を運転するのも怖い道幅の未舗装道を慎重に下っていく。新蔵橋を渡るとダム建設工事従事者向けにできた急ごしらえの売店街があり、ここで運転手がガル村の人から木里の人に交代。4200mの峠を目指して、比高差2000m近い山道を登っていく。斜面には集落が点在し、車道はところどころで翌日登るはずだった邛引村への徒歩道と交差する。道が悪く、トラックは暴力的に揺れる。何度尻が宙を浮いたかわからない。飛び跳ねながら、手すりにしがみついてひたすら耐える。
夕食休憩を挟んで12時間ほど悪路を走り続けたところで、前方の道路がつい先ほど起こった土砂崩れで埋まっており通行不能なのを見つける。時間は夜の12時、やむを得ず、近くのバスターミナルの招待所で一泊。翌朝、仮復旧した現場を過ぎ、ひたすらに大きな山の斜面に集落の点在するスケールの大きな景色の中をさらに走ること4時間、木里県城に到着。運転手さんに礼を告げてトラックを降り、山行が終了した。
◽︎下山後
木里より塩源へバス。塩源からは西昌に出るのが一般的だが、今回は卒論の都合もあり、本来の最終目的地・濾沽湖に行きたかったので、塩源ー(ミニバン)ー濾沽湖ー(ミニバン)ー麗江と移動し、麗江より昆明、香港を経て空路で帰国した。
■反省
・雨の中非防水の携帯をポケットに入れておくという不注意のせいで、携帯を壊してGPSを使用できなくなり、山行継続断念の直接的原因を作ったのは大きな反省点。
・幸い結果的にはなんとかなったが、勝手のわからない海外での、初山域、初標高の単独行はリスクが高く、実際に軽い高山病にかかったりルートミスが多発するなど、きわどいものだったことは否めない。このルートに今後行くなら、山域に詳しい人を雇うか、かなり山慣れた者複数人で行くことを強く推奨する。
・他のメンバーがいない油断もあり、朝の準備が遅い、休憩が適当など、行動が乱れがちだった。そのことが、実際に(日の入り時刻の遅さを考えても)遅い到着や、体調不良、雷雨への遭遇等を招く一因となっており、無駄なリスクを背負うことになった。単独行であるからこそ気を緩めないようにするべき。
■感想・備考
・予定では4日目にマンツォ牧場(满措牛场)泊、5日目に水洛村へ一気に下りることになっていたが、下りの場合、これだと4日目の行程は2-3時間で終わる。また、5日目は歩きの場合長すぎて非現実的である。4日目ウーホアゼイ牧場発ドゥル村泊(牧場の人曰く9時間)、5日目ドゥル村-新蔵橋(橋を渡ったところに宿あり)、6日目新蔵橋-邛引村が妥当なところではないか。ただし、5日目はひたすら辛い道路歩きであり、車に乗せてもらえればそれが一番楽である。
・高山病対策として、今回は陸路で高原入りし高度順応すると同時に、成都のユースホステルで購入した高山病薬(1日分)および、稲城で購入した高山病対策ドリンクの紅景天を携行し、後者は一日三回服用した。結果、頭痛はあったものの、重い症状が現れることはなかった。ただし、あとあと人に聞いたところでは、紅景天は高地へ行く一ヶ月前から服用しないと意味がないらしい。気持ちの問題程度の効果だったのかもしれない。
・地元の人との出会いが印象的で、人に親切にしてもらうことのあまりに多い山行だった。お世話になったすべての人々に感謝すると同時に、自分も見ず知らずの人に親切にできるような人間でありたいと強く思った。同時に、旅をしているという気分を深く味わえ、まさにこれが「山旅」なのだな、と感じた。
・登山を含めたアウトドア活動が娯楽として行われるようになってまだ日の浅い中国での登山は、ルートが未整備であり情報の入手も難しい反面、山には自然と密着して暮らす人々が暮らしており、山仕事をする地元の人に案内してもらう場面がよく見られるなど、登山黎明期の日本に近い雰囲気があるのかもしれないと思った。
・トイレはない。そもそも馬糞・牛糞だらけなので、わざわざ作る気にもならないのかもしれない。下界の村にすらない。
・木里県城のバスターミナルで水洛村行のバスを発見。水洛ー木里にバス便があるのは本当らしい。距離232km、きっぷ101元。
・携帯は麗江の修理屋で直した。安くて早い上に完璧な仕上がりで、確実に日本で修理するよりよかった。