2017/5/5 矢筈岳(和歌山)
山岳愛好会雷鳥(東京大学・お茶の水女子大学公認サークル)
矢筈岳(和歌山)山行
作成 木下
□日程 5月5日(金) 日帰り
□山域 紀伊山地(日高川・旧中津村)
□在京本部設置要請日時 2017/5/5 1900
□捜索要請日時 2017/5/6 0900
□メンバ(計1名)
CL木下
□交通(緊急時と今後の山行の為に)
大阪-(環状線)→天王寺-(阪和線)→和歌山-(紀勢本線)→御坊
大阪から3時間前後2270円 特急くろしお利用で2時間前後3670円
御坊駅→西原 御坊南海バス 36分 6~7本/日 750円
本郷→小釜本(コカモト) 日高川町コミュニティバス 右回り18分・左回り14分 各3本/日 200円
西原と本郷で乗換え(隣の高津尾でも乗換えられそう)
□行程
小釜本橋0730
→鷲の川の滝
→鷲の川林道登山口0910
→矢筈岳(810.8m)1035・1100
→田尻城址(751m)1115
→小谷峠1145(ここから山道でなく林道を使う)
→小谷林道入口1245
→小釜本橋1320
[歩行計5時間25分]
※木材搬出作業などで鷲の川側が通行止めの場合、小谷側からのピストンに変更する。判断時点で時刻が遅ければ中止する。
※小谷側へは踏み跡がやや薄く、小谷林道も一部崩れているようなので、不安を感じたら鷲の川側へ引返す。
□エスケープルート
鷲の川林道に戻る/小谷林道に進む(前進後退は田尻城址を目安にする)
□地図
2万5千図「川原河」
□参考書籍・webサイト
『分県登山ガイド29 改訂版 和歌山県の山』児嶋弘幸・2011・山と渓谷社
ヤマケイオンライン 矢筈岳 http://www.yamakei-online.com/yamanavi/route_detail.php?id=11848
個人の山行記録 2008年 http://www.syotann.com/yahazudake081128.html
ヤマレコ 2017年1月の記録 https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1053533.html
ヤマレコには30件の記録有り、最新は2017年4月、鷲の川からピストンのもの
□遭難対策費
100円/人*1人
計100円
□参考情報
■日没日出
5月5日日入(和歌山) 1846
5月6日日出(和歌山) 0505
■ラジオ周波数
NHKラジオ第一:大阪666kHz/田辺1161kHz
NHKラジオ第二:大阪828kHz/田辺1602kHz
NHK FM:和歌山84.7MHz/御坊83.9MHz/大阪88.1MHz
■警察署電話番号
和歌山県警御坊警察署 0738-23-0110
矢筈岳山行記録
木下 作成
□日程 5月5日(金祝)
□山域 紀伊山地
□天候 曇ノチ快晴
□メンバー(計1名)
木下
□計画
小釜本橋0730
→鷲の川の滝
→鷲の川林道登山口0910
→矢筈岳1035・1100
→田尻城址1115
→小谷峠1145
→地蔵尊1215
→小谷林道入口1245
→小釜本橋1320
[歩行計5時間25分]
□行程
小釜本橋0746
→鷲の川の滝0830?
→鷲の川林道登山口0902・0909
→矢筈岳1025・1130
→田尻城址1152・1159
→小谷峠1232・1236
→地蔵尊1325
→小谷林道入口1352
→小釜本橋1419
□紀行
矢筈岳は、関西百名山とやらに選ばれていて、和歌山県下の山岳会などが団体で登りに来ることもあるそうだ。以前は石楠花の群生をアピールしていたらしい。日高川を少し上流に行くと、ふじまつりの催される椿山ダムがあり、また清冷山という山が矢筈岳と夫婦のように対をなして座している。テレ東の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」も一度このあたりに、コミュニティバスで来ていた。
祖母宅からは川の向うに綺麗なピラミダルな山が見える。これは実は矢筈岳でなくその手前の無名山なのだが、少し川下に移動すると矢筈岳もよく見える。麓の林道を辿った先にある鷲の川の滝とアマゴの釣り堀が一応の観光資源になっていて、そこから山頂まで登山道がついていることは知っていたので、いつか近いうちに必ず登ってみたいと思っていた。連休初日の伊吹山行が単発企画になってしまって登山靴と休暇を持て余しそうだったので、これは良い機会と、祖母宅訪問を兼ねて登ることにした訳である。
前日は昼過ぎまで完璧な青空だったが、この日の朝は曇っていた。しかし日が照って暑いよりは都合がよい。八時前、くすんだ桃色の小釜本橋を渡る。苗代を作っていた農家の夫婦が、矢筈へ行くのかねと声をかけてくれた。小さな集落だからたぶん祖母の顔見知りで、僕が孫であることも知ってであろう。
滝までの道は歩いたことがあった。これから山へ登ろうと期待に胸ふくらませての林道歩きは、ひとりでも全く苦しくない。川沿いの一本道とはいえ、古い石垣で水路が組んであったり資材運搬のロープウェイのようなものの残骸があったりと、景色も結構変化に富んでいる。ずっと登って行くと「矢筈岳ハイキングコース」と「アマゴ釣り場」の分岐になるが、滝を見たいのでアマゴ釣り場の方をとる。あとで合流できるようになっている。
八時半頃、釣り場の管理小屋にはすでにオッチャンが二人来ていた。連休だからお客もそれなりに来るだろうか。一言挨拶して、滝の方へ進む。若い楓の緑を見ながら奥へ行くと、小さな祠と歌碑が立っていて
あら鷲の雨雲はぶく風早み岩きる瀧の音どよむなり
という加納諸平の歌が刻まれている。さほど大きくない滝だが、滝つぼにかけられた朱に塗られたコンクリートの橋から間近に見られる。この橋が、自然の渓谷美には邪魔をしているし、みやびた造形でもないので、上手いアングルから見込まないといささか興ざめである。
橋を渡ったところから短いながらかなりの急登でハイキングコースへの道に合流する。合流点にはトラロープがかけてあって跨ぎ越したが、下るのは危険だということだろうか。これより先の林道も舗装はされていて周りの林に人の手の入っている感じもあるが、しかし急に人の気配が消えて、何となく心も急かされるような気分になる。
高校の時、ある作文で、山の価値はブルックナーの交響曲の価値と同じであると書いたことがある。人の全くいない山を独りで歩くとき、頭の中に流れてきたのはやはりブルックナーだった。今でも僕は、山はブルックナーと同じようなものだと思っている。
九時過ぎに登山口に到着した。「矢筈山登山口」という看板と、「黄色い印が登山道です」という注意の張り紙があった。この張り紙はルート上にもいくつか出ていた。山の中では黄色い印よりもむしろピンクの印の方が多いくらいだったが、おそらくこれは登山道以外にも沢山つけられていて、これをあてにはするなという意図なのだろう。だいぶ細くなった川の流れを渡ると登山道になっている。分県登山ガイドでは「丸太橋」となっていたが、踏み板が隙間なく敷かれた立派な橋だった。
登山道に入ると最初は結構急である。シダなどが生い茂ってしまって、草木を漕ぎながら行く。こんな調子がずっと続いたら厄介だなと思ったが、ある程度登って稜線がはっきりしてくると、それなりに明るい道になった。登って行くうちに雲も晴れてきた。分県ガイドには「主稜線出合」というポイントがあるが、それはあまりはっきりとしない。しかし数度の急登を経て、最後に山頂に連なるヤセ尾根に乗ると、木々の隙間から見える景色の素晴らしいこと。すでに空は前日のようによく晴れて、右手には蛇のようにうねる日高川と、そのうねりの僅かの土地に集まる村落と、隣の山塊から小さく突出した綺麗なピークと。左手は海岸線まで見えているようだった。風も抜けるので涼しくて良い。痩せた尾根を細かくアップダウンして、パッと開けたところが山頂だった。
山頂には、山名と標高を記した標柱のまわりに、日付と共に登頂記念などと書かれた大小の木の札が何枚も木に吊り下げられていた。山岳会の名ばかりでなく参加した三十名近いメンバの名を記したものまであった。この静かな、美しい、佳き山に、なぜ山名や標高を掲げる必要があろう、なぜ登頂を他人に誇示する気になろう。どういうセンスで山をやっているのだ。なぜこんな綺麗な里山に、征服的なアルピニズムを持込むのだ。山をスポーツやらレクリエイションやらにしないでくれ、よし山を道具にするとも山を汚さないでくれ。こればかりがこの山行で唯一、心を暗くした点である。深田久彌が「山頂」に書いた気分を、まさに実感した。彼のようにこの木片どもを燃やしてしまえたらよかったのに。
それさえ目に入れなければ、実に気持ちの良い山頂だ。南西側は大きく開けていて、海までよく見えた。御坊の火力発電所が目印だ。反対側も川と集落と隣の山と。木の間から東の方を覗くと、清冷山のなだらかな姿も綺麗だ。一人で過ごすにちょうど良い広さで、背にザックを当てて寝ころぶと、いつまででもそうしてごろごろしていたい気持ち良さだ。ハエがぶんぶんと飛んで来るが、もう山と一体の気分になってしまえばそれも気にならない。
山は身体化された文学である。この頃そんなことを考える。評論家でないからこれを理屈っぽく説得する術は持たないが、しかし直観にはよく合うのだ。山は確かに文学に違いない。山の魅力を知りながら山への熱情を失ってしまった人や山を歩く自由が利かぬ人には、何でもいいから山の文学を一篇読んでほしい。きっと一篇では済まなくなるはずだ。心が躍り、地図を開きたくもなろう、すぐ列車に乗って山へ向かいたくもなろう。
なぜ本屋にはガイドブックや指南書ばかりが並び、山の文学はことごとく絶版になってしまったのだろう。山がブームになるというときに、山頂に登頂記念と称してゴミを残していくような「登山」ばかりが広がって、正しき山の在り方をブームにしなかったのは誰ゆえなのか。せめて山をやろうとする人が皆、深田久彌を一冊でも読んでいたらいいのに。大島亮吉でもいい、伊藤秀五郎でもいい。
何よりも、横山厚夫さんである。関東の低山をメインフィールドにしながら、山の真髄に確かに達しようという人である。哲学的な精神論のようなものはなく、日々の山歩きのエッセイがほとんどだが、そこには我々のサークルでは実現できぬような自由な山行が繰り広げられている。僕は、大学のサークルとして組織での登山を行う以上、また経験値の少ない者同士で山へ入る以上、定められた安全ルールをしっかり守らねばならぬと考えているが、山じたいはもっと自由にあっていいと思っている。そして今日、ひとりで和歌山の里山を歩いて、ほんの少し、その境地に近づけたかもしれない。この山は間違いなく、横山さんの言う「静かなる山」でもある。歳をとったら、よい仲間たちと静かなる山を自由に歩くのが理想である。
独り占めの山頂に寝そべって、そんなことをぼうっと考えていたら、一時間も経っていた。十一時半の時報の”Heidenröslein”のメロディ(SchubertでなくWernerの方)が下の里から聞こえてきた。とても名残惜しいが、最後にぐるりの景色を見やって、もう来ることのないかもしれない山頂を辞した。
山頂から小谷側への道はやはり少し不明瞭なようだったが、稜線の一番高いところから外れなければ問題ない。急な下りの後、草木の多い暗い尾根をしばらく進み、小さな鞍部から登り返すところに、古い石垣が少しだけ残っていた。上がったところが平らに整地されていて田尻城址との看板が出ていた。南北朝時代の城跡で、玉置氏の手取城の支城だということだ。ザックを下して周りを探ってみたものの、ほかにそれらしい遺構は見当たらなかった。
城跡からの下りはかなり急で、全く頼りないトラロープを掴みながら行かねばならない。一気に高度を下げると小谷峠に出る。石の小さな屋根の下にお地蔵さんが三体いて、しかし二体は首が無くなってしまっていた。
ここから東への道は崩れていて通れないらしい。スイッチバックする向きに未舗装の林道を進むと、こちら側もすぐに山肌が崩れて土砂が道を半ば塞いでいる箇所に出くわした。その後も進むにつれ道が荒れていくような感じで、道の真ん中に太く長いひびが走っていたり、沢に流されて殆ど道が無くなっていたりした。五年前の台風の被害のあと、手が回っていないのだろう。今も少しずつ崩れ続けているようだったし、次にまた豪雨があれば通行できなくなってもおかしくない。下山してきて林道が歩かれませんだと困るので、逆ルートにするか、鷲の川からのピストンにする方がよいかもしれない。いづれにしても事前に役場に訊ねておくのが安心だ。山道の歩きやすさを考えても、分県登山ガイドにのっとった今回のルートとは逆向きの方がよさそうだが、インターネット上のいくつかの記録を見ても、山中に何本か立っていた片手矢印だけの簡易的な指導標を見ても、鷲の川から小谷へのルートが主のようだ。
山を下りて来た後の林道歩きはしんどい。人の通った気配のない荒れた道は、山の中を縫うように走るので景色もほとんどなく、陽の照る中をひとりで歩く心細さ。鹿の頭蓋骨まで見つけた。時折心を慰めるのは木々の間に咲く花ばかりである。結局、石楠花の咲いているのは一つも見なかったし、群生している様子もなかったが、躑躅はぽつぽつと咲いているのを見かけた。
やはり躑躅は、バス通りの植込みで我も我もと咲いているものよりも、山の林の中に一叢咲いているのを見つける方がずっと美しい。だいたい、躑躅の花の美しさは、同時に汚さをも感じさせるものだ。今にも萎れてしまいそうな薄い花弁は痩せぎすの美少女である。花があふれるほどの植込みでは、かつは咲きかつは萎れていく様が目の当たりにされて気の毒だ。山村の農家の一人娘である時と、ショウ・ウィンドウのマネキンのような衣装をまとってアスファルトを歩くときとでは、印象が違うものだ。
ようやく舗装道に乗ると、しばらくの区間はごく最近整備されたような綺麗な道だった。里の側から山奥へと順に舗装しているのだろうが、その先は崩れに崩れてしまっているのに、これからどうするつもりなのだろう。
舗装道もまだまだ長い。峠から日高川までのちょうど中ほどにあるお地蔵さんまで、コースタイムの倍近くかかった。荒れた道が続き、写真を撮ったり古いゴミを拾ったりしながら歩いていたとはいえ、だいぶ気分がだれていたようだ。気合を入れ直して下り続ける。山から日高川へとそそぐ支流が近づいてくると、道はだんだんと、たまに人の通っているような雰囲気になってきた。見事な藤の花も見られた。
ついに向うから軽自動車がやってきて、およそ五時間ぶりに人と出会った。軽自動車は僕の横で止まると、なかからオッチャンが顔を出して「矢筈へ登って来たんか、木下はんのとこの子かい」と。あとで聞くとこの人も祖母の友人で、どうやら僕が矢筈岳に登ることは数日前から集落のかなりの人の知る所となっていたようだ。心強いことである。
オッチャンと別れてまた歩いていくと、程なくして日高川に出た。初夏の太陽にきらめく川面の美しさ。対岸には牛舎が見える、村が見える。ここから小釜本までの道は美しい景色を見ながら楽しく歩ける。鮎釣りをしている人も何人かいた。日高川は全国で最も早く解禁される部類らしい。
桃色の小釜本橋が近づいてくると、川の中洲のような土地に家が何軒か建っていて、しかしいづれもほとんど骨組みと屋根だけになってしまっている。これも五年前の豪雨以降、片付けられていないのだ。川の流れにのまれたのだろう、東北の津波の跡地と同じような壊れ方だった。寂しい光景である。
出発から六時間半、休憩を入れても少し想定より時間がかかったが、小釜本橋まで戻ってきた。苗代はもう出来上がってカマボコ型のヴィニルシートを被っていた。
家に荷物を置いて暫し休憩した後、山間のトンネルのある道をまた三十分ほど歩いて、川下の中津温泉あやめの湯「鳴滝」へ。キャンプ場のそばなので結構混んでいた。帰りは狙い通りのコミュニティバスに乗って川沿いを走った。川と青空と山と、刻々変化して見飽きることのない美しい景色だ。
□注
・先人たちの名を記すときに、呼び捨てるか敬称を付すかというのは、難しい問題である。いちおう、僕にとって歴史上の人物であるか、生身の人間が感じられるかを規準として、「横山さん」と書いた。
・横山厚夫さんの著作は、たぶんほとんどが絶版で、文庫化されてもいないので古書でも手に入れづらい。僕も三冊しか持っていない。『ある日の山ある日の峠』、『一日の山・中央線私の山旅』、そして書籍としては文学に分類されるものではないが、ヤマケイ登山学校シリーズの『低山を歩く』である。高校の時、駅前の古本屋で『低山を歩く』を手にしたのは運命的であった。横山さんのエッセイを読めば誰しも、低山が好きになるだろうし、山は高さでも難しさでもネームヴァリュでもないと気づくだろう。
・他に、僕でも読んだことのあるような有名どころからいくつか挙げるならば、例えば、東京の大学に入ってこれから山を始めようとする一年生には深田久彌「秋の山あるき」(『わが山山』所収)、リーダになってどんどん山行を企画していこうという二年生には伊藤秀五郎「静観的とは」(『北の山』所収)、様々な山を知ってしかも感傷的な上級生には大島亮吉「涸沢の岩小屋のある夜のこと」(『山—随想—』所収)などが面白く読めるだろう。このくらいの名著ならば全集版のようなものが大学図書館に必ずあるし、神保町の悠久堂書店に何度か行けば文庫の古本が数百円で手に入る。
□反省
・遠征して地味な山に入るならば、地元の役場に状況を問い合わせておくのは鉄則だ。
・関東の整備された山を歩く時でも、日頃から地図とコンパスを意識しておくのが重要だ。