2019/8/6-8 鹿島槍ヶ岳
山岳愛好会雷鳥(東京大学・お茶の水女子大学公認サークル)
鹿島槍ヶ岳合宿計画書 ver.1.1
作成者:岩瀬
■日程 8/6-8 2泊3日 予備日1日
■山域 北アルプス
■在京本部設置要請日時 2019/8/9 19:30
■捜索要請日時 2019/8/10 8:00
■メンバー (計8人)
CL岩瀬 SL河原井 鶴田 加藤 豊永 宮本 平島 大石
■集合
バスタ新宿 6:15
■交通
□行き
8/6
新宿6:35-(高速バス)-信濃大町駅前11:06
信濃大町12:02-(大糸線)-稲尾12:32(210円)
※チケットはCLが予約済み
木崎湖畔で前泊
8/7
木崎湖畔キャンプ場から柏原新道入口までタクシー(約30分/約5500円+)
□帰り
大谷原-(タクシー/約30分/約5500円)-信濃大町
信濃大町駅14:57/15:57-(高速バス)-新宿19:28/20:28/
(※チケットはCLが予約済み)
■行程
2日目(8/7)
柏原新道入口 -3:50-種池山荘-1:00-爺ヶ岳 -1:00-冷乗越 -0:10-冷池山荘
[計6:00]
3日目(8/8)
冷池山荘 -1:20-布引山-0:50-鹿島槍ヶ岳 -0:40- 布引山 -0:50- 冷池山荘 -0:10- 冷乗越 -3:00-西俣出合 -1:00-大谷原
[計7:50]
■エスケープルート
爺ヶ岳まで:引き返す
爺ヶ岳から:冷乗越を経て大谷原へ
(扇沢駅(7:05/7:55/8:55/9:30/9:55/11:30/12:30/13:30/14:10/14:35/15:10/15:35/16:10/16:35/17:05/17:55)-信濃大町駅(扇沢線/35min/1360円))
■地図
山と高原地図「36.鹿島槍・五竜岳」
2.5万分の1: 「神城」「十字峡」「黒部湖」
■食当
1日目夜 加藤
2日目朝 宮本
2日目夜 豊永
3日目朝 平島
■共同装備
テント(Dunlop No1)
本体+フライ: 鶴田
ポール+ペグ:鶴田→豊永
テント(Dunlop vs50)
フライ+本体:岩瀬→河原井
ポール+ペグ:岩瀬→加藤
鍋(雪・月):岩瀬→大石
調理器具セット(ガジャマダ):岩瀬→宮本
チビ: 岩瀬→宮本
緑9: 岩瀬→平島
カート*1:加藤
カート*1:岩瀬
カート*2:平島
カート*1:岩瀬→豊永
救急箱(苺):岩瀬
■個人装備
□ザック □ザックカバー (□サブザック □サブザックカバー) □シュラフ □マット □登山靴 □替え靴紐 □ヘッドランプ □予備電池
□雨具 □防寒具 □エマージェンシーシート □帽子 □水 □非常食 □行動食 □予備食 □ゴミ袋 □コッヘル □武器 □軍手・手袋 (□歯ブラシ)
□新聞紙 □トイレットペーパー □ライター □地図 □コンパス □筆記用具 □計画書 □遭対マニュアル(緊急連絡カード含む) □学生証
□保険証 □現金 (□学割証) □常備薬 □着替え (□温泉セット) □日焼け止め (□カメラ)
■遭難対策費
400円/人*8人
計3200円
■悪天時
前日夜までに,延期も含め実施判断を行う。
■備考
・冷池山荘テント場 080-1379-4041
1000円/人 約40張
・種池山荘テント場 080-1379-4042
1000円/ 人 約20張
・木崎湖キャンプ場 0261-23-3939
1300円/人 約100張
http://www.kizakiko.com/index.htm
・日出(鹿島槍ヶ岳) 04:49(8/7) 04:51(8/9)
日没(鹿島槍ヶ岳) 19:00(8/7) 18:58(8/9)
・アルピコタクシー株式会社 大町営業所 0261232323
アルプス第一交通株式会社 0261222121
・長野県警大町警察署 0261-22-0110
・2014年雷鳥記録 鹿島槍・五竜
鹿島槍ヶ岳合宿記録
■作成者:岩瀬
■日程:2019/8/7-8
■山域:北アルプス
■メンバー/隊列 (敬称略)
CL岩瀬(40期/B2) 豊永(41期/B1) 大石(41期/B1) SL河原井(40期/B2) 平島(41期/B1) 加藤(41期/B1)
宮本(41期/B1) 鶴田(40期/B2)
※41期同士は順を入れ替えていた。下りでは河原井と岩瀬の位置を交換した。
■タイムスタンプ
□1日目(8/7)
5:10 扇沢
5:45-55 休止 6:35-46 休止
7:20-30 休止 8:05-15 休止
8:42 種池山荘 9:03 同発
9:08-16 休止 9:20-30 休止
10:00 爺ヶ岳 南峰 10:07 同発
10:25 爺ヶ岳 中峰 10:42 同発
11:49 冷池山荘
□2日目(8/8) ※()内の時刻は河原井の別隊
4:56 冷池山荘 テント場発
5:35 布引山着 5:48 同発
6:20 鹿島槍ヶ岳着 7:12 同発
7:35 布引山 7:44 同発
8:05 冷池山荘 8:55 同発
9:44-55 休止 10:05-15 休止
11:05 事故
12:00(12:05) 同発
12:40(13:05) 西俣出合過ぎ着
13:15 同発
13:40-48 休止
14:00 大谷原着
■記録(岩瀬)
41期に山行記を書いてもらったのでそちらも合わせてお読みください。
8/6は木崎湖畔に泊まった。駅からキャンプ場までは湖畔を30分ほど歩く。テントサイトは広く松の間にテントをたてる感じ。キャンプをする家族客が多く静かに寝られるように離れてテントを立てた。41期に張り方を教えるが、地面に石が埋まっていてペグが刺さりにくい上に周りにペグにできるような石はあまりない。3時ごろに雨が降り始め遠くで雷がなり始めた。念のため封鎖されているトイレの建物の屋根下に入り一時待機。じきに雨は上がった。夕飯は麻婆春雨丼。ご飯がうまく炊けたので美味しくできた。キャンプ場の猫がすり寄ってくる。テントの外も中もとにかく蚊が多くメンバーを苦しめた。
翌朝は2:00に起きトマトペンネを作る。チーズを載せるとうまい。テントを畳んでキャンプ場の入り口でタクシーに乗る。テントに付けたテン場管理用のタグは早朝なので管理所のポストに入れておくよう指示を受けた。真っ暗な中30分ほどで登山口へ。まだ少し暗く肌寒い。テン場で時間がなかったのでお手洗いに行く時間を確保できず、扇沢まで歩いた。タクシーで扇沢まで連れて行ってもらえば良かった。次第に日が昇り、針ノ木の稜線が赤く色づく。日の出時間を過ぎてから出発。最初の急登は様子見のつもりで登っていたが意外に41期も着いて来ているので良いペースで登る。途中休止では水分補給と塩分補給を欠かさない。特に休憩できるような広い場所もなくルートを空けて30~45分に一本のペースで休止した。北海道で水を大量に持って行く豊永さんの装備を重めにしていたが要望により食当装備などを振り分ける。山荘下のガレ場通過前にも休憩を取る。種池山荘からは稜線上で日陰がない。鹿島槍ヶ岳には雲がかかるが爺ガ岳から冷池までは道を目で追える。種池発後すぐに平島君がこむら返りを起こしそうとのことで加藤君を先頭に平島君を二番手に隊列変更。爺ガ岳手前でライチョウを見かける。南峰の左の巻道にデポして軽く登頂。中鋒頂も超えてテンポ良く冷乗越まで。山荘までは右側が切り立っていて危険な箇所がある。山荘でテン場の手続きを済ませる。管理用のタグはあとで回収するからテントの外にわかりやすくつけるよう指示を受ける。水1L交換券を人数分をもらい山荘右手の外トイレを使うよう言われた。山荘で売っている巾着袋はデザインがカワイイ。テント場までは歩いて10分弱。結構急なので行き来は大変。山荘よりテン場の方が電波が入る。テントを張った後に雨が降り始めた。雨も強く外に出るのが億劫になったのでテントで待機。僕は横になって眠りに落ちてしまったが、寝ている間雷雨が激しかったようだ。加藤君曰く、「とにかく凄い雷雨で、四方から雷の音が迫ってきた」。寝ていたので判断することができなかったが稜線上のテント場で小屋まで避難するべきであった(後述”反省”参照)。1時間もしないうちに止みトイレに山荘まで行くと再び降り始める。山荘まで行くのに雨具を持って行った方が良い。ダンロップで米を炊いている間に空は晴れ空には虹が。ホシガラスがたくさん飛んでいた。日の入りの時はテン泊者皆外で立山の方を眺めた。
3時に起床し満点の星空の中外でラーメンを作って食す。大石君と豊永さんの荷物は分担しサブザックでテン場を発つ。身軽なので良いペースでどんどん登れる。布引山をあっさり超え鹿島槍頂へ。北アルプスを一望する。富士山、八ヶ岳、南ア、妙高、日本海…。美しさの前で我が語彙を恨む。サブザックでコースタイムを巻いた分、山頂ではだいぶゆっくり写真撮影にふけった。テン場まで戻る頃には日が昇り暑くなる。テントを畳み、山荘で水を補給する。1Lの料金を払ったのに1Lも入れてくれなかった。冷乗越からは崖のような斜面を降りて行く。メンバーはかなり下りに手こずっていた。この急坂を登るのを避けて正解であった。登山客は一人しか会わない。河原井のお腹の調子が良くないらしく二度休止し、河原井を先頭にする。しばらくして河原井の転落事故が発生(詳細は後述の報告を参照)。41期4人を連れて降りる。樹林帯も相変わらず急坂。しばらくして川の音が聞こえ始めるとすぐ砂利の車道にでる。西俣出合の水場の場所は不明瞭。見つけられなかった。デポしてポカリだけ持って河原井のもとへ引き返す。車道に出るところから10分も引き返さないうちに合流。全員で合流してタクシーの予約を取る。砂利の車道は軽く水が流れている。タクシーの運転手さんは一人一人タオルを渡して出迎えてくれた。信濃大町までのタクシーの間、強い夕立が降った。運転手によると大町のあたりも例年になく暑い日々だそうだ。予約を間違えてバスの時間を一時間ずらして半数ずつとってしまい、先発組には急いで駅前のそばを食べて帰らせる羽目になってしまった。後発組も駅前のそばを食べた後、一時間後のバスで新宿まで。残りの夏と河原井の無事を願って解散した。
8/6 文責:大石
山行計画の変更で初日は移動のみの予定だった。昼ごろまでバスに揺られ、信濃大町駅の蕎麦屋に後ろ髪を引かれながら電車でキャンプ場の最寄駅に到着し、駅の前の湖を大回りしてキャンプ場に着いた。キャンプ場ではすぐにテントを張って夜の支度をした。私は初めての山行だったため色々驚く点があったが、寝支度の早さもその一つだった。普段日付変更と夜更かしを競い、1限をブッチしつつ9時に起きて紅茶を飲んでいる人間には天地がひっくり返っても無理そうな3時半起床の計画表。これに備えるための就寝7時なのだが、日が燦々と照っている中で夕飯を食べるのはとても新鮮だった。食当は加藤くんで美味しい麻婆春雨を作ってくれた。うまかった。ありがとう加藤、ありがとう春雨。食事が終わると間も無く夕立に見舞われ、近くの廃(?)トイレに避難した我々は山の名前山手線ゲームで時間を潰したのだが40期の先輩がたの知識量と山愛がとてもよくわかるいい機会となった。ところで私は始終蚊と戦っていた。薄々気がついていたがここ蚊めっちゃ多くないか?元々蚊に刺されやすい体質の私は果たして夜寝られるのか?頭の中を不安がよぎる。
果たして結果は惨憺たるものであった。予定通りの時刻に就寝したものの普段なら夕食の準備のために久我山のサミットスーパーで鳥の胸肉を品定めしている時間だ、そもそも全く眠くない。加えて新鮮だったのは夏の平地でのテントの蒸し暑さである。暑い。湿気と熱気と風通しの悪さはまさにサウナ。暑い。日本の夏とはかくも凶悪だっただろうか。こうなってくるとようやく宴会を始めた普通のキャンプ客の騒がしさも一段と気になってくる。そして極めつけはやはり蚊であった。頭の周りを威嚇するかのようにブンブンとどこかのYouTuberよろしく飛び回る蚊は、夕方のうちこそ撃墜できていたものの夜になると人間の目には全く視認できなくなりテントの中は彼らの王国と化した。そう、まさしくそれは闇夜のテントを飛び回る吸血鬼であった。結局僕はほぼ一睡もできないまま日付を超えることとなり、足の無限の痒さと2日目以降の行程への無限の不安を抱えたまま一時過ぎにようやく束の間の睡眠に落ちるのだった。
8/7 文責:加藤
この日は登山口への移動を考えて2時に起床。昨晩は周りの家族連れがBBQしていたり、テント内が暑かったりで、僕も含めてよく寝られなかった人が多かったようだった。
暗いうちにタクシーに乗って登山口に到着、まだ薄暗いなか山稜を見あげると、遠くに種池山荘のものらしきライトが見えた。少し歩いたところにあるというトイレに向かっているうちに徐々に夜が明け、朝焼けに照らされた山々がきれいに見えてきた。ついに北アルプスに来たという思いに浸りながら写真を撮っていると、大石と僕は他のメンバーに置いてかれた。やはり車道で河原井さんがいると歩くスピードが速い。トイレのある扇沢駅が思ったより遠そうだったこともあり、二人は途中で済ませて帰ることにした。
全員が登山口に戻ってきて、歩き始めようとしたところに係員のおばちゃんが大声で話しかけてくる。何事かと思ったら、「虹が出てたの見た?運がいいね!」。誰も虹など見ていないし微妙な空気になる。気を取り直しで出発。
やはり登りはつらい。高度を上げて少し涼しく感じられるようになっても、汗はとめどなく流れる。辛かった時の記憶というものは勝手に切り取られるもので細かくは覚えていないが、なぜ岩瀬さんはいつまでも喋ったり歌ったりできるのだろうか。いや、大石と豊永さんもよく喋って元気だナァァ、と僕は隊の後ろの方で心が荒んでいた気がする。ダジャレの内容など僕は何一つ覚えていないのでここに書けないが、この頃の大石はまだ岩瀬さんのボケにもしっかり対応していた。山荘が近くなってくると、がけ崩れが起きた個所を通過するなど、地図で見ていたよりも険しい道が多い印象だった。3時間ほど歩いて種池山荘に到着。稜線に出て、一気に景色も開けたので、少し元気が出てきた。爺ガ岳まで登り始めてしばらくし、平島が足をつりそうとのことで休憩。開放的な稜線で景色が良く、快晴だったので気持ちの良い時間になった。その後すぐ雷鳥に遭遇するも、すぐにハイマツの中に入り込んでいってしまい見えなくなってしまった。残念。
爺ガ岳南峰はトラバースする予定だったが、どうせ近くにあるから登ろうという誰かの発案で、荷物を少し下の道に置いたまま登った。その後も次第に雲が登ってきていたが、中峰から北峰へと、登りやすく、気持ちの良い稜線を進んだ。爺ガ岳から降りてくるといよいよガスが立ち込めてきて、冷乗越あたりから山荘は見えなくなっていた。1年生みんなが疲労の色を見せてきた頃、冷乗越からの最後の急登を登り切り、山荘に到着。ところが、看板にはテント場まで15分の文字が。実際は10分程だったけれども、いちいち小屋まで時間をかけなきゃならないのは面倒だった。テント場にテントを張り始めるものの、大きい石が多く埋まっていてペグを刺すのに苦戦。その後山荘からテン泊者に渡される水1L無料券が配られた。
夕飯までは時間があるのでみんな暇を持て余し、女性陣は今寝ても夜も寝られるだろう、とか言うことで寝始めた。テントで寝るのにまだ慣れない僕からすると驚異の睡眠力である。周りの雲は時間が経ってもなくなりそうになく、むしろ怪しげな色をした雲があちらこちらに出てきた。しばらくして突如大粒の雨。まともに降りそうなので慌ててテントに入る。この時河原井さんは外で荷物の整理をしていて、帽子などを雨の中に置いたままテントに避難してきた。こちらのテントでは二人が寝ていたので、座っていてもスペースがうまく取れず、河原井さんと僕も横になった。ツイッターを開いて大石と宮本の投稿を見ると、(山に来てツイッター開くなと怒られそうだが)ダンロップの方でも岩瀬さんをはじめとしてみんな寝ているようだったし、やることもないので、結局僕も寝ることにした。
しばらくして周囲が明るくなり始め、雨は止んできたようだったので、徒歩10分のトイレに行く。山荘のテレビでは開幕したばかりの甲子園が流れていた。帰るときになってまた雨が降り出し、雨具なしで来ていた岩瀬さんは濡れてしまったようだった。
夕飯はダンロップの中で作る事になり、エスパースから食当の豊永さんのみ食材等々を持って移動。夕飯作りをサボって申し訳ない気持ちになったが、残された方は残された方でまた暇を持て余すことになった。今度は割とすぐに明るくなってきたので、どうせまたすぐに降るんだろう。騙されないぞと思いつつも、やはり雨の気配はなさそうだと感じで外に出ると、景色を阻んでいた雲はすっかり消えて到着直後は見えなかった松本盆地には綺麗な虹がかかっていた。ちょうどそのころに夕飯も出来上がったので、外に出て絶景を眺めながらカレーを食べた。さらに食べている途中、今山行中初めて槍の穂先を発見。食後寝るまでの時間は、立山連峰に美しく映える夕日を眺め、写真を撮りながらみんなで黄昏る、幸せな時間になった。
午後7時就寝。この夜は疲れもあってか、みんなすぐに寝られたようだった。
8/8 文責:平島
今日は3時に起床。昨日の暑い中の蚊地獄とは打って変わって快適な環境でよく寝られた。それでもまだまだ眠いものの、今朝の食当なので極力速く動くようにする。昨日のうちにパッキングや朝必要なものの準備は済ませられたので、自分の中では割と速くできたものの、それでも先輩には敵わないようだ。もっとてきぱき動けるようになりたいものである。
外に出てみると満天の星。稜線上で空が広いのでさらに沢山の星が見える。目が良ければもっとはっきり見えただろうなあ。なかなか見られないので星を撮るくらいはしたかったが食当なので断念。朝食は棒ラーメンにした。少し濃かったものの、ある程度はうまくできただろうか。
食事が終わって少ししたらサブザックで鹿島槍ヶ岳登頂を目指して出発。上りたての朝日に照らされた景色を堪能しながら進んでいく。やっぱり荷物が軽いと動きも軽くなる。とはいえそれでも息は上がって、体力の無さを痛感した。
そして、まずは布引山(2683m)に登頂。ここから/^o^\フッジッサーンが見えるほど視界は澄んでいて、山々をバックにジャンプして写真を撮るなどして15分ほど楽しんだ。僕は軽く頭痛がしたものの、とりあえず大丈夫そうなので意識的に呼吸をするなどで対応して続行。目的地を視界に収めながら30分ほど歩いて、本命の鹿島槍ヶ岳(2889m)に登頂!雲は依然として少なく360度見渡せ、立山や富士山、槍ヶ岳、八ヶ岳、日本海まで、とにかく滅多に見られないであろう絶景だった。そんな絶景の中かめはめ波で吹き飛ばされるような写真を撮っていたのは見事な絶景の無駄遣いである。そして同期5人の集合写真では標高にちなんで「2889m」のポーズ(?)。僕の顔は隠れてしまったものの、なかなかうまく撮れて満足。
そんなこんなで眺望を味わっていたらあっという間に1時間弱経っていたので、惜しみながらテント場へ向かって下山開始。道中で、登ってきていた人にオコジョがいると言われ、見てみたら低木の枝の中からひょこっと出てきた。その姿のとっっても可愛いこと。幼い頃よく志賀高原でスキーをしていてなかなか見られないなあと思っていたオコジョが、まさかこんなところで見られるとは…とかなり感動した。昨日だったかにほんのちょっとだけ見えた雷鳥も改めてじっくりみたいなあと思って探したものの、結局そっちは見られずじまいだった。残念。
その後テント場についたら、あとは山荘で水を補給して降りるだけ。ただしそのルートはかなり険しい道。そのためあまり使われないのだろう、途中会った人は1人だけで、その人が「地図に書いてあるとおりの道だった」と言っていたのが印象的だった。そんな道で雨には降られなかったのが幸いだった。ただでさえ急で滑りやすい場所が更に滑りやすくなるのは流石に勘弁である。階段や鎖場なども多く、それだけ急な道なんだなあと思いつつ、なんだかんだでその険しい道を抜けたら、滝の下の小さな窓付きトンネルを通って、今度は工事用の車道を1時間ほど歩く。こっちも登山靴には辛い。
ようやくタクシー乗り場についたら、運転手さんからタオルを頂いた。なんでも「タクシー運転手は何万人もいるけどタオルを配っているのは自分だけ」だそうだ。その人はとても能弁で、東京は(電気で明るいから)ホタルのお尻と言うのだということなど、色々なことを教えてもらった。そうして駅について、温泉に入りたかったものの近くにはなかったので断念して、駅構内の蕎麦を食べて解散。ごちそうさまでした。
…振り返ってみると、改めて天気に恵まれた幸運続きの山行だったなあと思う。またいつかこれに匹敵する絶景が見られることを願って。
■■■■■■
<事故報告>文責:河原井 加筆編集:岩瀬
□概要
鹿島槍ヶ岳計画の3日目(山に入ってからは2日目)の下山中に、40期河原井が鉄製の階段でつまづいて転倒し階段を下まで転がり落ちて、頭部からの出血と右ひじの靭帯損傷をした。その後自力下山をした。
□事故前の状況
山行実施時、鹿島槍ヶ岳周辺では昼間は天気が良いものの、昼過ぎから夕立が起こりやすく、午後遅い時間の行動を控えた方がよい状況であった。そのため、当初は山中で2泊3日する計画であったが([raicho
13634] 鹿島槍ヶ岳計画書ver1.0)、行程を変更し、山中では1泊2日とする計画に変更された([raicho 13638]
鹿島槍ヶ岳計画書ver1.1)。
1日目・2日目については特筆すべきことはなかったと思う。河原井は比較的高山病になりやすい体質であるが、当山行ではそのようなことはなく、特に疲労もしているわけではなかった。
3日目についても、冷池山荘を出発するまでのことについてはそれほど問題があったとは思わない。確かに鹿島槍ヶ岳の山頂で長く時間を使ったり、テントの撤収がもたついたりしたが、その分行程で巻いており、あまり遅れているとは言えない。冷池山荘を出発したのは9時前であり、林道の終点である西俣出合に昼までに着きたいとしても、大きな問題ではないと考えられる。
□事故の詳細
冷池山荘を出発し、赤岩尾根の下りに入る。オーダーは先頭が岩瀬で、河原井は真ん中くらいであった。赤岩尾根の上部は切り立った岩の尾根を開いて作られた道で、滑落の危険性が高い道であった。河原井はもともと下りが苦手であるうえに、このような道に十分になれているとは言えず、精神的・肉体的に疲労を蓄積させた。おそらくそれが原因となり腹痛を引き起こし、高千穂平付近で2回トイレに行っている。この際、荷物を一部パーティーメンバーに持ってもらっている(合計で3kg分くらいであったと思う)。
その後はオーダーを河原井が先頭に変更し、前よりもスピードを落として下山を続行した。この時には腹痛は大体収まっていたが、精神的な疲労は悪化していたように感じる。
高千穂平を抜け、再び傾斜がきつくなったところにあった鉄製の階段で、事故は発生した。10段ほどある階段の2段目ほどで、段を踏もうとしていた時に階段の面につま先をひっかけてしまい、そのまま重心が前に出てしまい転倒、途中で止まることができず、階段に沿って下まで、一回転ほどしながら落下した。
この時、帽子をかぶっていた頭部はどこかにぶつけたようで切り傷による出血、右腕は伸ばしていたため転落中に力がかかり靭帯損傷、そのほかいくつか打撲と擦り傷が起きた。また、転落中を含め、意識の喪失はなかった。道の左側が谷側になっていたが河原井は上半身をルート上、下半身は左側の茂みに足を突っ込んでいるような形で倒れていた。
□事故後の対応
とりあえず意識はあったので、まずケガの個所の確認をした。右腕の靭帯損傷は自覚症状があったので(その時は骨折か脱臼かわからなかったが)、本人もすぐわかったが、頭部の出血については眼鏡に血が付着していて出血があることはわかったものの、どこからの出血であったかは本人にはわからなかった。岩瀬に出血個所を確認してもらい、その場でガーゼを押し当て止血した。数枚のガーゼによる止血後三角巾でガーゼの上からきつく縛った。その後ザックを取り去り、すぐ近くのより安定した場所に移動した。また、出血の影響かそれとも血を見て気分が悪くなったためかわからないが、貧血のような症状が出ていたため、その場で横になり回復に努めた。
意識があり、足にけがもなかったため、血が止まり、貧血症状が治まるのを待って自力下山をすることにした。この時、右ひじには痛みがあり、動かす・体重を乗せるのに支障があったものの、下山時の安全性を考慮して固定をせずに下山をすることにした。2次災害を防ぐため、岩瀬が41期の多くを連れて先に下山し、河原井・鶴田・加藤が回復を待って下山することとした。この時、河原井はサブザックで最低限度の荷物のみを持ち、ほぼ空身の状態で下山した。ザックは岩瀬のザックに外付けし、その他の荷物はメンバーで分担した。
岩瀬たちが出発してから10分ほどで後続も出発し、西俣出合の先で再び合流して大谷原に向かった。
□下山後
予定通りタクシー・高速バスを使って東京に戻った。脳震盪・脳出血の可能性があったので信濃大町で病院に行くべきか検討したが、チェックリストを見ても該当しなかったので、この時は行かなかった。
河原井は東京に戻るとすぐに病院に行って脳の検査(CT)をした。結果は特に問題なしであった。また、翌日に右ひじのレントゲンを撮り、結果はただの靭帯損傷ということであった。現在(8/24日時点)では右ひじ以外に症状はなく、右ひじにはあて木をした状態となっている(9月初頭までには完治予定)。
□事故の原因
・オーバーペースによる疲れ
この事故の直接の原因は精神的・肉体的な疲れによって注意力が散漫になり、体の制御に気を配れなかったことであると考えられる。この精神的・肉体的な疲れの直接の原因はオーバーペースだと考えられ、疲れ始める前に速度を落とす・休憩の頻度を上げるなどすれば、事故は防止できたかもしれない。
今回は河原井がつかれた後に休憩の頻度を上げる・スピードを落とすなどしていたが、一度疲れてしまうと回復には時間がかかるため、トータルでは疲れる前にこれらの対策を行ったほうがよいのかもしれない。
41期もいる中で下りの速度は早すぎ上に、急な赤岩尾根でもっとゆっくりするべきであったのは間違いない。河原井の疲れに気づくことができなかった。(岩瀬)
・経験不足
河原井は軽い装備で低山を歩く経験はあるものの、重い装備で山を歩いた経験は少ない。さらに赤岩尾根のような場所に来るのは初めてで、経験が足りていたとは言い難い。
・焦り
時刻が遅くなるほど夕立の危険性が高まるため、行程にあまり大きな遅れがなくとも、早く下山しようという焦りはあった。また、途中でトイレによる休憩をはさんだことによる遅れへの焦りもあった。
夕立のことと共に、バスの時間が頭を過ぎっていたのも確かである。バスの時間をもっと余裕を持って予約するべきであった。時間を間違えてとっていたというのも精神的に圧迫感があったと思う。(岩瀬)
・荷物の過多
河原井の個人装備はおそらくパーティー内でも重いほうで、さらに共同装備としてテント本体・フライも持っていた。登りにおいては特に問題はなかったが、苦手な下りになったところで、装備の過多が疲れに影響を及ぼしたと考えられる。
いざという時のためや、41期に重い荷物を経験させようと割り振った保険として岩瀬の装備を軽くしたが、その分鶴田さんと河原井にテントを持ってもらうことになった。
□その他反省
・下山した時点で病院に向かわなかった
東京で病院を受診した時に先生が露骨に嫌な顔をしていたので、信濃大町の時点で病院に行くべきであったということだろう。
・止血の対応時にゴム手袋を使わなかった。
<事故後の対応の検討>
状況の整理
・天気は曇り、少し汗ばむくらいの暑さ。標高は1600m程度でガスってはおらず視界は良好。稜線の方は雲がかかっていた。
・有人小屋は近くになく、急峻な赤岩尾根を3時間半ほど登り返した冷池山荘がもっとも近く、一時間の下りで車道、一時間半の下りで工事関係者の施設といったアクセス。
・電波は行程中基本的にどれかしらの会社は繋がり、事故時も繋がった。
検討
1.手当の内容(圧迫止血、仰臥位で安静、右腕は固定せず)
頭部からの出血は帽子の一部を赤く染めるほどで顔や耳まで流れていた。初めは河原井自身の手で、その後ガーゼを使い、河原井が体を起こした時にガーゼの上から三角巾で縛って止血した。ゴム手袋をつけ忘れた(ゴム手袋を入れる袋はもう少しわかりやすい方がいいような気がする)こと以外は正しい手当てであっただろう。河原井が仰臥位を望んだので楽な姿勢をとらせた。右腕の痛みは固定した方が楽であっただろうが、下山のことを考えて固定しなかった。岩瀬は当初固定するつもりで新聞紙を用意したが、自重を支えられないとしても、とっさの動きを考えれば下山のために固定しないのは正解であった(固定しないことは河原井が主張してくれた)。
2.分隊
当初、怪我をしている河原井に気を使いながら経験の少ない41期を下ろすのは大変だと考えて、岩瀬と41期4人が先発隊、40期鶴田と河原井、41期加藤くんの3人を後発隊に分隊した。鶴田が救急箱をもち、加藤くんは41期の中で最も体力のある者として選んだ。岩瀬は車道に荷物をデポして登り返し、後発隊をサポートするつもりであった。隊間で連絡も取れるということで分隊の判断をした。しかし、懸念するべき事項として第一に、河原井が気を失う、倒れる、ということがあっただろう。事故後の手当の最中、河原井が自分の症状や今後の対応を冷静に話せていたし、本当に事故後かというくらい話せていたので、分隊した後に状態が悪化するということを考えることを怠った、できなかった。頭部損傷で、数十分後数時間後の突然の症状は頭に入れなければならなかった。もしそうしたことが起こった時、CL抜きで事故隊が正しい判断を取れるか、CLと連絡を取れるか、連絡をとるにしても時間を無駄にする、ということを考えれば、全員でまとまって降りる方が安全であったと考えられる。CL不在のリスクと分隊のメリットを検討すれば、CL不在のリスクを重視するべきであった。
<反省>
・まず41期を5人連れて行くということで一日の歩行時間を長すぎず高山病にかからないようにと考えて、16時着の行動計画を立ててしまった。午後になれば夕立が降るし何かあれば夜の暗い中歩く羽目になりかねない。夜行バスを使って三日間の行程にすればよかったと思うがどうしてそれを避けたかは理由を覚えていない。結果的に変更したものの最初から全うな計画書を流したい。
・2日目の午後、テント設営後に雨が降り、僕は眠りについてしまったのだが、雷が鳴る大変な気象条件だったそうだ。これより前に笠ヶ岳で雷が落ち被害を受けた事例を聞いてはいたが、詳しく読むことはなかった。加藤くんはこれが頭にあったらしく、テント場でもし雷が鳴ったら逃げられなくて危険ではないかとの質問を受けたが、まともに答えることができなかった、というより、しなかった。小屋まで10分のやや急な下りで、雷雨の中テントから出るのは億劫になるだろうが、稜線上のテント場で雷の中テントの中にいる方がよほど危ないだろう。加藤くんから相談を受けた時点で、否、相談がなかったとしても、皆で話し合い、雷が少しでもなり始めたら小屋まで避難することを共有しておくべきであった。僕が寝ていたため起こしにくかったのはあるだろうが雷の危険性をもっと共有しておけば良かったし、寝ていても起こせる関係性を築けていなかったのは大きな反省である。何もなかったから良かった、というのはあるが、皆に怖い思いをさせてしまったのはあるし、今後正しい判断ができるようによく反省したい。学期明けの反省会でも強調しようと思う。
・河原井の事故は上記の通りだが、僕が先頭のペースが早かったのと河原井の体調をもっと大事にしていればと思うと事故の責任は僕に十分にあるだろう。バスの予約時間をもっと余裕をもっていたら、山頂でもう少し時間を考えていれば、荷物の分担を再度組み替えていれば、など事故が起こってみると反省要素が多く出る。河原井の足が無事で、意識もあったのは不幸中の幸いだが、完治するのにかなりの期間がかかる怪我を負わせてしまったのは非常に申し訳ない。
<雑感>
・反省は上記のように多く出たが、景色としてはこれ以上にないものを体験できた。41期の中には雷鳥で初めての泊まりだったり晴れているの初めてというメンバーがいたが、北アルプスをここまで一望できるのはメンバー全員の目に焼き付いたことだろう。夏山の素晴らしさを少しでも体感しまた来たいと思ってくれたら本望である。僕は山を背景にジャンプした写真をとってもらうのが好きだが、それをメンバーに楽しんでもらえたのも良かった。個人的に3年ぶりに北アルプスに来たが、山頂から表銀座や裏銀座、白馬、立山を見ると、もっと行きたいと心の底から思った。
・松本清張の小説「遭難」は鹿島槍を舞台とした推理小説だ。この小説で登場人物「岩瀬」が疲労凍死してしまう。実はこの「岩瀬」の死はメンバーに仕組まれていたのだが、、、。
続きはご自分でお楽しみください。(ちなみに僕は殺されませんでした)(事故が起きてしまったので少し不謹慎になってしまいました)
・僕は中高で山岳部だった時に朝起きたらすぐに寝袋をしまって料理に行かなければいけない風習だったので今も速攻でたたんで外に出て料理を始めようとするが、2日目の朝平島くんが見習って早くテントから出てご飯を作り始めてくれたのはとても嬉しかった。
・ライチョウをもっと見たかった。曇っていれば暑くなくて外に出て来てくれるそうだが、、。
・これだけの41期と北アルプスに来られて良かった。またご一緒しましょう。